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関ヶ原の戦いを早期決着させた毛利輝元の「弱腰」

史記から読む徳川家康㊸

 秀秋の寝返りを見た家康は、自身の旗本に鬨の声を挙げさせ、進軍を命じた。この頃には徳川方が形勢を逆転し、午後3時頃には徳川方の勝利を確定させている(『言経卿記』『関原合戦記』「伊達家文書」「吉川家文書」)。

 

 この後、家康はさらに西へと兵を進め、同16日に三成の居城である佐和山城(滋賀県彦根市)を攻撃(『言経卿記』)。翌17日には、三成方についた毛利輝元(もうりてるもと)を家康は粗略に扱わないとする書状が福島正則・黒田長政(くろだながまさ)名義で輝元のもとに届けられている(「毛利家文書」)。

 

 同20日、家康は大津城(滋賀県大津市)に入った(『言経卿記』)。関ケ原の戦場に間に合わなかった家康の三男・徳川秀忠は同日、大津城に到着。家康に面会を求めたが、拒否されている(『板坂卜斉覚書』『聞見集』『台徳院殿御実紀』)。後日に面会した際、秀忠は家康に激しく叱責されたというが、どうやら遅参したことについては咎(とが)められず、いたずらに疲労させてまで兵を急がせたことを責められたらしい。

 

 翌21日、田中吉政(たなかよしまさ)に捕縛された三成が大津城に連行されてきた(『譜牒余録』『細川家記』)。

 

 大坂城の輝元は25日に城から退去(『言経卿記』)。このまま大坂城に居座り、家康と一戦交えることは十分に可能だった。それほど、輝元が総大将を務める三成方すなわち大坂方の兵は意気軒昂(いきけんこう)だったが、輝元の身の安全や領国の保証など、家康との約束を背景にした吉川広家の仲介により、おとなしく退去に従ったようだ。この時の輝元の弱腰が、関ヶ原の戦いの勝敗をより鮮明にしたといえる。

 

 同26日、大津城を発った家康は翌日に大坂城に入り、豊臣秀頼(とよとみひでより)に謁見した(『言経卿記』『時慶卿記』)。あくまで豊臣家家臣として戦勝の挨拶をしたらしい。

 

 同年101日、三成、増田長盛(ましたながもり)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の3名が関ヶ原の戦いの首謀者として大坂、堺、京で引き回しされた後、六条河原で斬首刑に処された(『古今武家盛衰記』)。その首は京の三条橋にさらされている(『言経卿記』『時慶卿記』『義演准后日記』)。関ヶ原の戦いの開戦から、わずか半月後のことだった。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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